春秋左氏伝に記載された国都移転占について

 

春秋左氏伝の文公十三年に、邾の文公が国都を繹に移転することについて、担当者と話し合う記事がある。この伝は、春秋三伝の内、公羊伝と穀梁伝には経文のみで伝文が無く、左氏伝にのみ記載がある。この当時は、方位術の確立以前と思われるため、候補地を個別に占った際の議事録の中から、重要な部分を抜き出したもので、現在の形になったのは、左氏伝の編集者か、元の故事の伝承段階で既にこの形になっていたのかは窺い知ることはできない。しかしながら、この記事には、国君が自ら巫祝として判断を下す古形態を維持しており、非常に興味深い。以下に私見による省略された部分を補って訳してみる。補った部分は括弧で表記する。

邾文公卜遷于繹。史曰。利於民而不利於君。邾子曰。苟利於民。孤之利也。天生民而樹之君。以利之也。民既利矣。孤必與焉。左右曰。命可長也。君何弗爲。邾子曰。命在養民。死之短長。時也。民苟利矣。遷也。吉莫如之。遂遷于繹。五月。邾文公卒。君子曰。知命。

邾の国君が、国都移転を計画し、候補地の選定を行った。(いくつかの候補地の中で、)繹については、担当者が、「民に利益はあるが、国君には何の利益もない」と判断した。国君が判断して言うには、「民に利益があるならば、我が利益である。天は民を発生させて、その中から君を立てる。それは天が民の利益になるようにさせるためである。民に利益があれば、必ず我が利益となろう。」とした。それに対し、補佐官は、「寿命を延ばせ(る方位がござい)ますが、なぜそうなさらないのですか?」と進言する。それに対して国君は、「我が天命は民を養うことにある。寿命の長短などはその時のめぐり合わせである。民に利益がある方位を選ぶということは、我が天命である。」として、繹に移転した。これにより、五月に文公は亡くなった。君子の評、「文公は自分の使命と寿命を理解していた。」

この記事について、今回取り上げるのは、国の守り手としての国君の立場である。最終的に二択まで絞り込まれた候補地について、国君は、私利よりも国益を優先するという表明により、寿命を終えることになる。本来ならば、国君を強化する事により、国を安定させるところを、自身を犠牲に利用して国を強化しようとしたことで、実は呪術的な意味がありそうだと思われるのである。商(殷)の甲骨文字に、雨乞いに際して、自身を火に投じて犠牲とするものがある。責任者の義務というものであろう。古代社会における政教の一致は、時として残酷な場面を演出するのである。

国事占というものは、一般平民には直接関わることがなくとも影響は大である。政策と国益に関しては、為政者の資質が重要であるのは、今も昔も、国が異なっていても変わるところがない。

 

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