論語中の鬼神と祭祀

雑記

論語の中から、神や先祖を祀る事に関する文をいくつか拾ってみる。

先進篇に、子路が孔子に鬼神の祀り方を質問した記述。

季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。敢問死。曰。未知生。焉知死。
季路 鬼神に事ふるを問ふ。子曰く、未だ人に事ふる能はず、焉ぞ能く鬼に事へん。敢えて死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん。

この解釈に就いて。「人と鬼」「生と死」は対立するようで同じことだと言っているはずである。何故かといえば、この文章は、子路からの質問だからである。孔子は、弟子の資質や人間性を把握して、それぞれのタイプに合わせた答えを用意する。子路への答えならば、あまり難しいことを言う必要がないであろうから、「人にも鬼神にも同じように接しなさい」「生きるということを知れば死ぬことも同じ」という答えになるはず。

八佾篇には、

祭如在。祭神如神在。子曰。吾不與祭。如不祭。
祭れば在(います)が如くし、神を祭れば神の在が如くす。子曰く、吾 祭りに与らざれば、祭らざるがごとし。

ここで「祭」一字のみでは、先祖供養を示す。先祖供養も神様の祀りも、その場にいるように接しなさいとする。更に、祭りに関わらなければ祭らないのと同じだという。程子は、先祖供養は「孝」がメインで、神様の祀りは「敬」がメインだとしている。祭りに関わらないというのは、例えば現代日本で言えば、墓参を代行業者に任せたりすることがそれに相当する。供養や祭祀は自分自身で行うのは基本なのであろう。

子路篇。

子曰。南人有言曰。人而無恆。不可以作巫醫。善夫。
子曰く、南人に言へる有りて曰く、人にして恒無くんば、以て巫醫を作すべからずと。善いかな。

南方の人といえば、シャーマニズムの盛んな楚である。シャーマンが医者をも兼ねており、且つ指導者としての役割があるのは、現代にもある。人として恒常心の無い者は、神に通ずる者として、更に民衆の代表として王となる者にふさわしくないということであろう。

爲政篇。

子曰。非其鬼而祭之。諂也。
子曰く、その鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつらう)なり。

あまり解説の必要はあるまい。

述而篇、祈禱について。

子疾病。子路請禱。子曰。有諸?子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。
子 疾みて病す。子路 禱らんことを請う。子曰く、これ有りや?子路 対(こたえて)曰く、これ有り。誄に曰く、爾を上下の神祇に禱る、と。子曰く、丘の禱ること久し。

ここでいう祈禱は、天地の神祇に対して、自身の過を悔い改め、善に遷ることを以て神の助けを得ることを目的としている。子路は、師のために、良かれと思って祈禱をしましょうと請うのであったが、孔子は、丘(孔子の名)は祈禱をすること久しいのだ、と言ったのである。八佾篇にも、「罪を天に獲れば、禱るところ無し」と言っている。

雍也篇。

樊遲問知。子曰。務民之義。敬鬼神而遠之。可謂知矣。
樊遲 知を問ふ。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂ふべし。

ここでいう「知」とは、宗教に依らない政治のことであろう。鬼神とは、人知を超えたものであるから、これを利用して人民をごまかしたり、たぶらかしたりしないことを「知」と表現した。知性や知識は本来、実直なものである。

述而篇。

子不語怪、力、亂、神。
子 怪、力、乱、神を語らず。

これは、「怪異」「暴力」「反逆」と同時に「神」を並べている。ここの「神」については、雍也篇の「鬼神を敬してこれを遠ざく」と同じく、人知を超えた存在という扱いである。鬼神に対する敬意が欠けるとオカルトに流れるので簡単には口にしないのであろう。

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